| free hosting image hosting hosting reseller online album e-shop famous people | ||
![]() ![]() |
||
■バロウの創世神話■
いまだ天も地もなく、すべてが青い混沌に充たされていた頃。天空の神・タオと海原の
女神・メアという兄妹の神が降り立ち、混沌は空と海とに分かたれた。
タオは空を飛ぶ鳥たちを創り、メアは海に泳ぐ魚たちを創った。
こうして世界が始まった。
やがて二人は夫婦となり、風の娘・サーラが生まれた。しかしサーラは父であるタオに
愛欲を抱き、母であるメアに嫉妬してこれを殺した。メアから流れ出た血は凝り固まって
島となり、髪はジャングルとなり、唇は洞窟となり、涙に濡れる瞳は泉となった。
ゆえにその島はバロウ(女神の血)と呼ばれるようになった。
メアを殺したサーラは母になりすまして父と交わり、子供が生まれた。
最初に生まれた子は魔物・レヤであり、タオは驚いてサーラに訊ねた。
「愛しい妹よ、なぜおまえはこんな凶々しい子を産むのか?」
サーラが答えられずにいると、空を飛ぶ鳥たちが代わって答えた。
「それは闇の子、呪われた子。汚れた契りが産んだ子だから」
サーラは慌てて「いいえ、いいえ、愛しい兄よ。あんな嘘つきどものいう事を信じては
なりません」と弁明した。
タオは怒って鳥たちから言葉を奪い、ゆえに鳥たちはさえずることしかできなくなった。
次に生まれた子は人・オランであり、タオは驚いて再びサーラに訊ねた。
「愛しい妹よ、なぜおまえはこんな弱々しい子を産むのか?」
サーラが答えられずにいると、海を泳ぐ魚たちが代わって答えた。
「それは罪の子、呪われた子。偽りの契りが産んだ子だから」
サーラは再び「いいえ、いいえ、愛しい兄よ。あんな嘘つきどものいう事を信じては
なりません」と弁明した。
タオは怒って魚たちから言葉を奪い、ゆえに魚たちは泡を吹くことしかできなくなった。
最後に生まれた子はランガであり、タオは驚いてまたもサーラに訊ねた。
「愛しい妹よ、なぜおまえはこんな猛々しい子を産むのか?」
サーラが答えられずにいると、ランガが代わって答えた。
「我は罰の子、呪われた子。母を殺した娘が産んだ子だから」
これにはもはやサーラも弁明できず、タオは怒って娘に告げた。
「愛しく罪深い風の娘よ、おまえは私の妹にしておまえの母であるメアを殺した。そして
そればかりか父である私を欺き呪われた子をもうけた。ゆえに私はおまえをバロウの地に
封じ、おまえの子供たちは未来永劫おまえの罪をあがなう。レヤは闇に集い、オランは島
に朽ち、ランガは王に従う。おまえたちが私の姿を見ることは、もはや二度とないだろう」
(秋津書店刊『歴史の旅』増刊号/『バロウ神話とネオランガ』より抜粋)
*
とうに終電も絶えた中央線武蔵野駅の南口ロータリーに一台のタクシーが停まったのは、
すでに曜日も変わって土曜日となった、深夜の二時過ぎであった。
「…なあなあ、エリカちゃん。遠慮するこたないよ、どうせ近くなんだろ? 玄関先まで
送ってくってば…」
酒臭い息と見え透いた下心を漂わせて、腕をつかむ酔客の汗ばんだ手を、慣れた仕草で
ひらりとかわし。
「ごめんなさ〜い。もっと一緒にいたいけど、エリカ、駅まで自転車なのよぉ。十万円も
したフランス製のやつ、盗られちゃったら大変でしょ? また今度、お願いねぇ」
媚びと焦らしを絶妙にブレンドした微笑で、やんわりと、しかしきっぱりと酔客を車内に押し返す。
いくら同伴出勤までした良いカモであれ、我が家に案内してやる義理はない。現に以前、
うっかり漏らした電話番号から、住所を調べて押しかけてきた厄介な客もいるのだ。
「…そ、そうかい? そんじゃ、また来週ね、エリカちゃん」
信号を曲がってタクシーが視界から消えるやいなや、営業用の微笑が『エリカちゃん』
の顔からかき消え、汚いものでも叩き落とすように袖をはたくその表情は、もういつもの
『島原家の長女』の顔に戻っていた。
「――馬〜鹿ッ! たかがチャリンコに、誰が十万もつぎこむもんですか!? まったく、
頭悪いったらありゃしない!!」
存分に悪態を吐き捨てると自転車置き場など目もくれず、彼女は暗い夜道をやや千鳥足
で、徒歩十二分の我が家へと歩き出す。
確かに、なまじ自転車に乗るよりは歩いた方が美容にもいい、手頃な距離だろう。
島原家にある自転車といえば、彼女が中学時代に通学で使っていたオンボロが一台ある
限り。それも今は新聞配達で酷使され、油をまめに注さなくては乗れた代物ではない。
今日のような休刊日でもなければ、家で着替えてすぐさまチェーンをきしませ配達所に
駆けつけるのが、彼女の日課だった。
しかもその上、彼女には弱小なりとはいえ、れっきとした芸能プロダクションの経営者
という、表向きの肩書きまである。
文字通り、寝る間も惜しんで、かけがえのない家族のため身を粉にして働く彼女の姿は、
ある種の美談と呼ぶにふさわしかったろう。 早くに両親を亡くし、頼るべきたった一人
の兄すら、もうこの世にはいない。
残された二人の妹たちを養っていくために、綺麗事を並べて暮らしていけるほど、彼女
は世間知らずではなかった。
いや、むしろ、世間が彼女にそれを教えたというべきか。
高校卒業を控え、とある中小企業に就職が内定していた彼女に、新宿の歩行者天国で声
をかけてきたのは、スターホールという名の三流タレント事務所のスカウトだった。
仕事内容は、予想した通り。遊ぶ金欲しさの馬鹿な女子大生でもなければ、とても承諾
できる話ではない。
しかし、返事をするまでのたっぷり三分間。
彼女の脳裏を駆け巡っていたのは、事務員のつましい給与と若さを武器にした荒稼ぎの、
今後四年間における比較計算だった。
仮に、大学に行けるだけの余裕があったとしても、その学歴を活かせるほど女子の就職
状況は改善されてはいない。
であればいっそ、同じ四年間を猶予期間と割り切り、稼げるだけ稼ぐのもひとつの方法
なのではなかろうか?
どの道、最終的には、事務員ぐらいしか職が残されていないのは一緒なのだから。
そして彼女は、誰にも打ち明けることなく、みずから進んで自分の切り売りを始めた。
コンパニオンからアダルトビデオまで、金になれば仕事は選ばなかったし、仕事を取る
ためにスポンサーと寝ることなど、なんとも思いはしない。
たとえ誰と寝ようとも、彼女の胸の奥底に刻まれた『初めての人』の面影が薄れること
など、絶対にないとわかっていたからだ。
――その人がいたからこそ、今の私がある。
その人が抱いてくれたからこそ、どんなに辛くとも私は生きていける――。
けれど、それがはたして――『誰』なのか。
それは、血を分けた妹たちにすらいえない、彼女の心の内に秘めた――『秘密』だった。
仕事もどうにか板に付き、無邪気に芸能人のサインをねだる妹たちをはぐらかしながら、
文字通り身を張って働く彼女が、社長に内々の相談を持ちかけられたのは、みずから期限
と定めた四年目も近いある日のこと。
豪華なフルコースに、洒落たホテルに予約されたスウィート。大げさに仕事ぶりを誉め
そやすその口調に、警戒心を抱かなかったのは、今にして思えば軽率すぎた。
情事の後で煙草をくゆらせ、共同経営者の話を切り出された、あの時。
どうして、目の前の餌に目がくらんでしまったのだろう。
一夜明けて、事務所で待ち構えていたのは、返済不能の債務と、債権者の怒号だけ。
あれから、三年。
経営はいまだ苦しくとも、スターホールをまがりなりにも堅気の芸能プロダクションと
して再建できたのは、ひとえに彼女の意地と、かけがえのない家族への想いゆえ。
そして、もうひとつは――。
「ふう…」
まだいくぶん肌寒い夜風が、呑めもしないのに無理して呑んだ酒の酔いを醒まし、彼女
の長く艶やかな髪をたなびかす。
その風の吹く彼方には、我が家の建つ高台が、月明かりを浴びて静かにたたずんでいる。
けれど、そこにはもうひとつ。月明かりに黒々と浮かび上がる、巨大な影もあった。
「…ただいま、いい子でお留守番してた?」
答えるはずもないのに、まるで家族の一員であるかのように話しかけてしまい、思わず
苦笑を漏らす。
ある日突然、有無をいわせず彼女の日常に割りこんできた『それ』を、いつしか家族と
同様に扱い始めている自分が、無性に滑稽に思えてならなかったからだ。
それの名は――ネオランガ。
南洋に浮かぶ小国・バロウの守り神であり、最愛の兄・島原勝流の忘れ形見であるそれ
を、彼女は愛し、そして憎んでもいた。
こんなもののために、彼女は生まれ育った日本の国籍を捨てて、一度しか行ったことの
ない異境であるバロウ王国に帰化し、挙句の果てに――『王』となってしまったのだから。
「午前様の王様…か。本当、洒落にもなりゃしないわ…」
*
「…遅かったのね」
建て付けの悪い玄関をできる限り静かに開け、可愛い妹たちの眠りを妨げぬよう忍び足
で廊下を渡る、そんな心優しい姉の努力を嘲笑うかのように、ぶっきらぼうな声が彼女の
背中に投げかけられる。
「――夕姫!」
振り向くとそこには、寝つけなかったのか彼女の一番末の妹が、寝巻代わりの下着姿の
まま、月明かりだけが照らす居間にたたずみ姉の帰宅を迎えていた。
「あ…あんた、こんな遅くまでなに起きてんのよ? 学校あるでしょ、学校!?」
悪いことをしている訳ではなくとも、心のどこかに隠し事があれば、誰しも後ろめたさ
を覚えずにはいられない。
ましてやそれが、誰より感づかれたくない相手となれば、彼女の狼狽を責めるのは酷と
いうものだったろう。
「明日は、第二土曜日。いつまでも週六日制のつもりでいると、歳がばれるわよ…」
しかし、そんな露骨な戸惑いを見過ごしてくれるほど彼女の妹・夕姫――は、思いやり
あふれる性格ではなかった。
「ファミレスのウェイトレスって、けっこう大変なんだ? もしかして、お皿でも割って
叱られてたとか?」
幼さとは縁遠い、人の心を見透かすような妖しい輝きを宿した、その瞳。
ありきたりの小学六年生と同じあどけなさなど、この少女には求めない方が正解だろう。
そして、それはまた、ありきたりの子供をいいくるめるような釈明では、少女の真実を
見すえる瞳から決して逃れられない理由でもある。
にもかかわらず、彼女はその難題に挑んだ。
そうしなければ壊れてしまう、脆く危うい秘密が彼女にはあったからだ。
「…ま、そんなとこね。今度、新入りの娘が入ったんだけど、これがまた使えない娘なの。
おかげで支配人に泣きつかれちゃって、早番でおまけにサービス残業。もっとも、その分、
ちゃんと夜食までおごらせてきたけどね」
平静を装いつつ、それらしく愚痴もこぼし、とどめは普段のがめつさでしめくくる。
単純この上ないもう一人の妹・海潮――であれば、これで軽く煙に巻けたに違いない。
だが今回は、相手が悪かった。
「ふぅ〜ん…」
つまらない芝居でも眺めているかのように視線を泳がせると、少女は無遠慮に姉の襟足
へと鼻先を寄せる。
「ブランデー付きの夜食とは豪勢なもんね。最近のファミレスって、十二時をまわっても
お酒、出してくれるんだ?」
今度はどんな苦しい言い訳が出てくるんだろう?…とでもいいたげに、小悪魔的な微笑
が、まだ熟しきらない桜色の唇に浮かぶ。
「強くもないくせに、無理して呑んでんじゃないわよ。ねぇ…『エリカちゃん』?」
「―――!!」
なぜそれを――という言葉を、少女の指に挟まれた一枚の名刺がさえぎる。
毒々しいピンクの紙に、恥知らずなハートのマーク。店から支給されたものでなかったら
破り捨てたくなること請け合いの、彼女のもうひとつの名前が記された名刺だった。
「『ご指名よろしくね』…か。こんなので引っかかる馬鹿もいるんだ。だけど、いくら商売
でも、三つはサバの読みすぎじゃない? お肌の曲がり角はごまかせやしないわよ…」
冷やかすように、勝ち誇るように、少女はみずからの正しさの証を姉に突きつける。
「あんた…まさか、海潮には――!?」
不安と焦燥が彼女の胸を灼く。
この早熟な少女ならまだしも、もう一人の妹はあまりに、幼稚なまでに純真すぎる。
潔癖さを正義だと無邪気に信じこみ、そうでないものを排撃するのになんのためらいも
ないほど残酷で、人にはそれぞれ事情があるなど思いつきもしない。
姉が夜の街で働いていると知って、黙っていられる性分では決してないのだ。
だからもし、このことが知れれば――。
注意深く積み重ねてきた積み木のひとつが、今、微かに崩れたことを彼女は知らされた。
まだ揺らぎ始めたばかりであっても、あとほんの少し突つきさえすれば、すべて跡形
もなく崩れ落ちてしまう。
かけがえのない家族という――砂の城にも似た、甘くせつない幻想が。
そんな彼女の思いつめた表情を、たっぷり堪能したといわんばかりに、くすりと微笑み。
「…いう訳ないでしょ、あんな単純馬鹿に。私、そこまで考えなしじゃないわよ。
ただ、見え透いた嘘つかれるのが、嫌だっただけ…」
情け容赦なく、目の前で『エリカちゃん』の名刺を二つに破り捨ててみせる。
この気の強さは、いったい誰に似たものか。
「……夕姫」
安堵の吐息を漏らしながら、彼女は複雑な想いを抱かずにはいられなかった。
自分は亡くなった母に、そしてすぐ下の妹は顔立ちばかりか性格まで、亡くなった父に
瓜二つだ。
しかし、両親の思い出を持たないこの少女は、そのどちらにも似てはいない。
あくまで我を通し、そのために傷つく者がいることなど気にもとめず、いつも自分だけの
真実を追い求め、愛する者たちを置き去りにしてゆく――その、凛々しいまでの傲慢さ。
忘れえぬ面影が、彼女の脳裏をよぎる。
まったく、誰に似たのだろう――。
「でも、まずいんじゃないの。仮にも『国王陛下』が風俗で働いてちゃ? 私たち、
ただでさえ、マスコミや公安に目を付けられてるんだから」
しばしの物思いをさえぎり、からかうように少女が小悪魔の顔で問いかける。
けれどそれが、決して降りかかる厄介事を案じてのことでないのは、明らかだった。
もっともらしい理由ときっかけさえあれば、明日にでもこの少女は街を焼き払い、法を
踏みにじり、人々をひざまずかせるだろう。 いやむしろ、内心それを心待ちにしている
といっても過言ではない。
なにしろ、少女には無敵の力――ランガがあり、破壊を思いとどまるほどには、世の中
を愛してなどいないのだから。
「どういたしまして、『大使閣下』。だけど、心配いらないわ。いくらうるさいマスコミが
嗅ぎまわろうと、玄関からこっちは大使館…バロウ王国領よ。もしなんかいってきたって、
その時は、外交官免責特権とやらで治外法権になっちゃうんだもの」
事がそれほど簡単でないのは、百も承知。
だが、ここで弱気を見せてはならない。
少なくとも少女に、街を焼き払うかっこうの理由を与える訳にはいかないのだ。
そんな、姉の精一杯の強がりを鼻でせせら笑い、挑むような瞳で少女がにらむ。
「…ペルソナ・ノン・グラータで国外退去にならなきゃね。政治家なんて、いつだって私
たちを追っ払う口実を捜してるんだし。マスコミだって、人を客寄せパンダぐらいにしか
思ってない。街の連中にいたっては、私たち、ただの疫病神よ――」
だが、その瞳はなぜか、悔しさとも哀しさともつかない、寂しげな陰りを帯びていた。
そして少女は、彼女の罪状を告げる。
「――そんな汚い奴らに、実の母親を『売女』呼ばわりされるなんて、考えただけでも
ぞっとするわ!!」
「――――!?」
その言葉に、今度こそ息が止まった。
耳を疑えたなら、まだ幸せだっただろう。
なにを馬鹿な?――と、笑い飛ばさなくてはならないのに。
ふざけるのもいいかげんにして!――と叱らなくてはならないのに。
凍りついた唇は、言葉を紡いでくれない。
灼け焦げた胸は、早鐘を打って静まらない。
いい返せるはずなど、ないのだ。
なぜなら、それは、嘘偽りのない『真実』でしかなかったのだから。
それは――この胸の奥底に封印し、誰にも明かしてはならない、絶対の秘密。
それを――なぜ、少女が?
よりにもよって、誰より知ってはならないはずの秘密を、なぜ!?
揺らぎ始めていた脆く危うい積み木が、今まさに跡形もなく崩れ去ったことを、彼女は
容赦なく思い知らされていた。
「……ゆ、夕姫…あんた、どうして…?」
蒼ざめた姉――いや、母の問いに。
「隠し通せるとでも、思ってたの…?」
少女の姿をした破滅の天使が、冷ややかに、それでいてどこか恨みがましくつぶやく。
「…小さい頃から、不思議だった。どうして私には、お父さんがいないんだろう?…って。
だから、その写真。小さい頃はずっと、これがお父さんの写真なんだって思ってた。海潮
は笑ったけどね、『これは、勝流お兄ちゃんの写真だよ』って…」
食器棚の上に飾られた、島原家の兄妹たちがそろって写っているたった一枚だけの写真。
亡き父と母の葬儀のため、家を離れていた兄が、最後に帰ってきた時の写真だった。
胸は締めつけられて痛み、潤む瞳は写真に釘付けとなり、憶病な耳は続いて告げられる
はずの言葉に脅える。
だが、真実からは誰も逃れられない。
たとえそれが、どれほど残酷であろうとも。
「…でも結局。正しいのは、私の方だった」
その瞳はさながら、写真にこめられた幾千の想いを見つめているかのようだった。
それは、妹の兄に対する――そして、女としての愛しい男に対する、つきせぬ想い。
島原魅波と、島原夕姫という――二人の女の、やるせない心であったのかも知れない。
「私、まだ小さかったから、お葬式のことはなんにも憶えてない。だけど、たったひとつ
だけ、憶えてるわ。苫米地の叔母さんが庭で遊んでた私を見て、なにか吐き捨てるように
いったの。なにをいわれたのかわかんなくて、それでもなんだか悲しくて泣いてたら、お姉
ちゃん、飛んできて抱きしめてくれたよね? あの時のお姉ちゃんの言葉だけは、今でも
忘れずに憶えてる。『ごめんね』って、何度も何度も『ごめんね』ってくり返してたよね…?」
――忘れられるものか。
消え入りたいような、胸が張り裂けそうな、あの苦くせつない想い。
いったいどこの女が、自分のお腹を痛めた子を『汚らわしい子!』と呼ばれて、泣かず
にいられるだろう?
けれど、いったいどこの誰が、兄と妹の間に生まれた子を蔑まずにいられるだろう?
すべては、ただ――私の過ち。
狂おしい想いに駆られ、昂りの命ずるまま、兄妹の絆を越えて結ばれた――あの夜。
なぜ私は、死んでしまわなかったのだろう。
なぜ私は、身ごもってしまったのだろう。
生まれ落ちる前から、忌み嫌われ蔑まれることを定められた――汚れなき命など。
やがてすべてを知り、呪われた罪を責めずにはいられない――愛しくも哀れな魂など!
しかし、そんな姉の苦悶の沈黙すら、黙殺と受け止めたのか。
「…そう。なんにも、いわないんだ? なんにも答えないし、言い訳もしない。それって、
過ぎた昔のことだから? それとも認めたくないことだから!? だったら、ここにいる
私は、いったい誰? お母さんの子だなんて嘘、承知しないわよ! 勝流兄さんがお姉
ちゃんを犯して、できた子供が私じゃない!!」
桜色の唇から、刺だらけの言葉が放たれる。
「――――!!」
だが、答えるより速く、
少女の頬には平手が見舞われていた。
「ぶった…?」
叩かれた頬の痛みが、怒りより先に驚きを、悔しさより先に戸惑いをもたらす。
いつも喧嘩の絶えないすぐ上の姉ならいざ知らず、歳の離れた彼女に叩かれた憶えなど、
物心ついてからこのかた何度もない。
姉としての優しさというより、母としての負い目がそうさせたのだろう。
しかしそれは、少女を傲慢で、他人の痛みに鈍感な暴君に育てただけでしかなかった。
「――いい逃れができなくなったら暴力? それじゃ、政邦協会の連中と変わらないじゃ
ない! 私、間違ったことなんかいってない! お姉ちゃんが勝流兄さんと寝たのも事実
なら、私が近親相姦の落とし子なのも事実!! いいかげん、自分のしたことを認めたら
どう!?」
一気にそこまでまくし立てたとたん、頬を腫らして喰ってかかる、その勢いが急にやむ。
なぜなら、そこに立ちつくしていたのは。
「…お姉ちゃん?」
叩いたままの姿で凍りつき、こぼれ落ちる涙を拭いもせずただ泣きはらす、
少女の姉であり母でもある――哀れな一人の女、でしかなかったのだ。
「…やめて。お願いだから…勝流さんのこと、そんな風にいわないで。恨むんなら…責め
るんなら、私だけにしてちょうだい!」
叫んだきり、ゆらりと膝が崩れ落ち。
暗闇に包まれていく視界を、走馬灯のように追憶がよぎる。
頭脳明晰で運動神経にも優れた、自慢の兄。
そんな兄がまぶしく、憧れてもいた。
友達から羨まれるたび、誇らしさが増し。
他の男たちなど、すべて霞んで見えた。
兄より素晴らしい人など、どこにもいない。
いつしか、憧れは淡い恋心へと変わり。
淡い恋心は、まもなく悲恋へと変わった。
――兄妹でさえなかったら。
今すぐにでも、この密かな想いを打ち明け、
熱く火照る躰も投げ出してしまえるのに。
渇きにも似た疼きすら癒してもらえるのに。
そう、二人が兄妹でさえなかったら――。
誰にもいえない人を想い、独り寂しく指を濡らして眠るのが夜ごとの儀式となり。
寝ても覚めても、兄の後ろ姿を目で追った。
こんなことではいけないとボーイフレンドを作ってみても、
得られたものはただ幻滅と、より強まる兄への思慕の情ばかり。
いっそ気が狂ってしまえれば、どんなに楽だったことだろう。
だから、あの夜。
そっと忍んできた兄が、幻に思えた。
想いがつのるあまり、夢を見ているのだと。
けれど、それは幻などではなく、兄その人。
驚くそぶりも見せずに夢心地の私を、その厚くたくましい胸に抱きしめながら、
優しい瞳でこうささやいた。
『神様が、僕らを導いたんだよ…』と。
その時は、甘い愛のささやきとしか聞こえなかったけれど、
今にして思えば、なにか別の意味があったのかも知れない。
なにしろ兄はやがて、本当に神に導かれ王となってしまったのだから。
でも、その時、私はなにも考えることなどできなかった。
想いが叶えられたことがただもう嬉しくて、それでいて初めての経験に脅えて、
頭の中は真っ白になってしまっていた。
憶えているのは鈍い痛みと、それとは裏腹な、女になれたという悦び。
それも――最愛の兄と結ばれて。
窓からさしこむ朝陽に照らされ、まどろみから目覚めると、兄はもうそこにいなかった。
しかし、狂おしい一夜が儚くあさましい夢でなかったことは、
シーツに残る微かな紅い印が証していた。
あれほど幸せな目覚めを迎えられたことは、それ以来、一度としてない。
そして――もう二度と。
兄妹の絆を越えてしまった私たちの関係が両親の知るところとなり、
兄が家を捨て放浪の旅に出たのは、それからもうしばらく後のことだった。
独り残された私に、癒しようのない心の傷と、まだ見ぬ小さな命を預けたまま――。
*
「気がついた、みたいね…」
ふと我に返って、最初に瞳に映ったものは、紅い渦巻の紋様が描かれた奇怪なドクロ。
「―――っ!?」
そして、同じく紅い渦巻の紋様をくまなく裸身に描き、薄帯をまとっただけの少女。
「夕姫! いったい、なに――!!」
跳ね起きようとして初めて、手足の自由が奪われていることに気がついた。
ここは――祭壇?
それに、私まで――裸に!?
気がつけば、自分の躰にもくまなく渦巻の紋様が描きこまれ、
台座の上で仰向けに縛りつけられている。
夜明け前でなかったら、生まれたままの姿が衆目にさらされていたに違いない。
しかし、そんな姉の狼狽などどこ吹く風と。
「…なに? ああ、これ? 誇り高きバロウの王族だけに許される、儀礼用の『呪紋』よ。
戦いの呪紋、弔いの呪紋、そして咒いの呪紋。いくらでもあるわ。神を喚び入れ、神の力
を得て、人ならぬ力を生む。お姉ちゃん、国王のくせに、そんなことも知らなかったの?」
涼しい顔で、少女が告げる。
それが少しも答えになっていないことなど、少女が一番よく知っている。
彼女は、こう訊ねているのだ――いったい私を、どうしようというのか?
私に、なにをさせようというのか?
しかし、その答えはまだ早い。
まだ彼女には――我が姉であり、我が母である『女』には、
告げなくてはいけないことが、いくらもあるのだから。
「気を失ったりするから、運ぶの大変だったわ。しかも脱がせて、呪紋まで施して。でも
さすがよね、たくさん男を咥えこんだ躰だけあって、色艶なんか少しも衰えてない。それ
どころか、こんないやらしい色情狂みたいな肉付きになって――」
いうなり、ぐいと豊かな乳房を握りつぶす。
「――くうっ!」
かつては、乳飲み児の自分を慈しみ養ってくれた、懐かしく暖かい母の乳房を。
「羞ずかしいとは思わないの!? この売女! 牝犬! 最低の淫売! これが実の母親
かと思うと、反吐が出るわ!!」
息を荒げ、それでいてどこか哀しげに、娘は言葉の限りみずからの母をなじる。
だが、それはなぜか、愛に飢えた幼児にも似て、せつない響きを帯びていた。
「……ゆ、夕姫…」
爪を立てられた乳房の痛みより、その内側に感じる痛みの方が、なおさら辛い。
それは、心が引き裂かれる痛み――だった。
最愛の男が遺してくれた、最愛の我が子。
でもそれは、やはり――罪の子でしかない。
兄が去ってから、躰の異変に気づき。
いくら堕ろせといわれても、頑として聞き入れず、みずからの喉にアイスピックを突き
つけてまで、母となることを望んだ。
『この子を殺すつもりなら、私も死ぬ!』と。
いい争ううち日に日にお腹も大きくなり、れっきとした診断書付きのノイローゼで学校
も一年休学して、遠くの街でこの子を産んだ。 こうして私に、歳の離れた妹ができた。
そう、少なくとも――戸籍上では。
夕姫――と名付けたのは、名も知らぬ外国から便りをくれた兄だった。
『今すぐ帰ることはできないけれど、僕らの心はいつも共にある』――そんな陳腐な文句
でさえ、どれほど心の支えになっただろう。
バロウと消印が押されたその手紙には、兄の近況が記され、得体の知れない象形文字と
ともに、なにかの研究に没頭している様子が綴られていた。
けれど、大切なのはたった一行。
『夕闇の海を見るたび、おまえと子供のことが気にかかる。もしも生まれた子供が女なら、
夕闇の姫君――夕姫と名付けてやってくれ』 見捨てられてはいなかったという嬉しさに
便箋を握りしめ、涙でインクをにじませた。 文中にさりげなくユリエルという島の女の
名前があったことなど、バロウに行くまではすっかり忘れ去っていた。
最愛の兄の死と裏切りを、なんの心の準備もなく聞かされた――あの時まで。
「――悪ふざけもたいがいにして! 今ならまだ、私たちだけの秘密にしておける。私が
母親だっていうこと…黙ってたのは謝るから、お願いだから、もうやめてちょうだい!!」
縛られた手足に縄が喰いこむのもかまわず、彼女はみずからの娘に哀願した。
もはやすでに、彼女の積み木は崩れ落ちて跡形もない。
しかしまだ、家族の幻想だけは保ち続けていたかったのだ。
「…なにを、怖がってるの? 海潮のこと?それともジョエル? 海潮みたいな単純馬鹿、
なにが起こったって感づくもんですか。だいたい、信じやしないわ。自分の姉と妹が母娘
だなんて! お姉ちゃんを抱いたのが他でもない、勝流兄さんだなんてね――!!」
その激しい口調には、できることなら信じたくなどなかった、という響きが潜んでいた。
欺かれていたこと、隠されていたこと。
そのすべてが、少女の憎しみの的だった。
両親の思い出を持たず、ありきたりの子供らしい無邪気さなど奪い取られ、冷ややかな
瞳で世の中を恨むことしかできなかった。
嫌いなもの、壊してしまいたいもの。
それらだけが、少女を取り巻いている世界のすべてだったのだ。
あの日――ランガがやって来るまでは。
「……夕姫…」
いつしか少女の恨みがましい瞳に、ひと雫の涙が浮かんでいるのを、彼女は見た。
「…だから、母娘だとか家族だとか、そんなくだらないお芝居はもうおしまい! 私は私、
島原夕姫! ランガに選ばれし者よ!!」
少女の幼い心に刻まれた傷がどれほど深いか、彼女はまざまざと思い知らされる。
母と名乗れこそしなかったけれど、誰より慈しみ、そして愛した。
だが、少女が欲していたのは、姉などではなく――母だったのだ。
それを、知らなかったとはいわない。
気づいていなかった訳ではない。
なのに目を背け、そして逃げ出した。
なんという憶病な、そして卑怯な女だったのだろう。
だとすれば、これは――私に課せられた罰。
他の誰にも償えない、私の――罪なのだ。
「…憶えてる? あの日ランガが、真っ先に誰の元へと馳せ参じたか? お姉ちゃんでも、
ましてや海潮でもなく、この私。どうしてか、その訳を知りたい?」
妖しい笑みをたたえ、少女がささやく。
「ランガは王に従い、王の側を離れない…としたら、今のところ国王であるお姉ちゃんが
まず第一のはず。でも、そうはならなかった。いい? 『ランガは正しいことを知る』。
だから、かりそめの王なんか、初めから用なしだったのよ。いくらお姉ちゃんがバパス・
島原勝流に最初に見そめられた女だろうと、その娘であり正当な王位継承者である私とは、
格が違うわ。だから、ランガは私に従い、私はランガに命じる。誰も逆らうことは許されない。
当然でしょ? 私が、真の『王』なんだもの――」
もし、その瞳に宿る輝きが狂気だとすれば、これほど哀しい狂気はなかったろう。
「お姉ちゃんにはね、立ち会って欲しかったのよ。今宵、汚れた血の娘が執り行う儀式に、
亡き先王の第一王妃として…ね」
その不吉な言葉が、背筋を凍らせる。
この凶々しい姫が望む、呪われた儀式とは、いったい、なにをしようというのか?
「そんなに脅えなくてもいいわ。ただの戴冠式…私が、ランガの真の王となるための儀式
でしかないんだから。お姉ちゃんはただそこで、なにもせずに見守っていればいいの。真
の『王』たる者が、どんな歌を謡い、どんな舞を踊り、どんな供物を捧げ、どんな祈りを
唱えて、ランガとひとつになるのかを…」
その言葉も終わらないうち、少女の陰から小柄な人影がふらりと現れる。
「―――ジョエル!?」
慌てて裸身を隠そうとして、縛られていたことを思い出す。
しかし、彼女が羞じらう必要は、どこにもなかった。なぜなら、彼の瞳から意思の輝き
は消え、ただ虚ろな光を宿していたのだから。
「あらあら、残念。自慢の男殺しのボディも甥っ子には通じないみたい。でも、残念がる
ことはないわ。だってジョエルには、私だけしか見えてないし、私の声しか聞こえてない。
今のジョエルは、ランガと同じ、私の忠実な下僕なんだから…」
いいつつ、少女はされるがままのジョエルから、彼女に見せつけるように淫らがましく
寝巻を脱がしていく。
「………!?」
すると彼にも、少女や彼女とはまた違った渦巻の紋様が、裸身にくまなく描かれていた。
「…これはね、魂までもひざまずかせる従属の呪紋。本当なら王族に施しちゃいけないんだけど、
真の王である私に、そんな禁忌は通用しないわ。それにどうせ、勝流兄さんをたらしこんだ、
第二王妃の産んだ子だもの」
ずきりと、彼女の胸に刺がささる。
あの日あの時、最愛の兄の死を知らされたことより、
彼の裏切りを知らされたことの方が、驚きと戸惑いは大きかった。
死ならまだ、覚悟ぐらいはできていた。
十年近くも音信不通で、なんの便りもないとなれば、それは死に限りなく近い。
逢いたくても逢えないのであれば、天国も南の島も、そう大した変わりはないのだ。
しかし、裏切りとなれば話は違う。
生涯、他の女を抱くななどとは望まないが、そらぞらしく夫婦の契りを交わし子供まで
産ませたとあっては、裏切り以外のなにものでもない。
たとえ許されなくとも、たとえ離れていても、兄が心から愛する妻は――私一人のはず
だったのだから!
「…ふふ。悔しい? 妬ましい? そうよね、彼はお姉ちゃんから愛しい男を奪った女が
産んだ息子。勝流兄さんがお姉ちゃんと私を見捨てて、南の島で抱いたゆきずりの女との
情事の動かぬ証拠。どう? 憎しみが湧いてこない? でも、今は、私だけの忠実な下僕。
私が命じさえすれば、なんでもする…」
なにごとかを耳元でささやくと、ジョエルは操り人形のようにふらふらと彼女に近づき。
「――うっ!」
叔母にあたる彼女の秘所に、その小さな舌と唇で、ねっとりと愛撫を始めた。
「…や、やめて! やめさせて! ジョエルは…ジョエルは、家族の一員なのよ!!」
だが、口でいくら拒もうと、この異常な状況が彼女の精神を蝕み、昂らせていることは、
熟れた躰の芯からあふれ出すしたたりが、言葉よりあからさまに告げている。
なにより、半分だけとはいえ――彼は最愛の兄の血を受け継いだ者なのだ。
その舌の動きに、その唇の感触に、面影を求めるなというのは酷というものだろう。
「…だっ、だめッ! ジョエル…ジョエル!やめて! いや、いやああぁっ――!!」
どれほど理性で耐え忍ぼうとしても、むず痒く痺れる腰は淫らにうごめき、さらに刺激
を欲して幼い少年の舌と唇を誘う。
――なんて、なんて私はあさましい女!
いくら手足の自由を奪われていても、相手は年端もいかない少年。脚を堅く閉じてさえ
いれば、こんな凌辱に身を任せずにすむはず。
なのになぜ、抗いもせずただされるがままに、はしたない喘ぎ声を漏らしているの?
なぜ、貪欲に腰を振って喜悦を貪っているの?
夕姫のいう通り、私は淫らな牝犬だったというの――!?
それが、施された呪紋の強烈な催淫作用のためだと気づくはずもない彼女が、心ならず
も狂おしい絶頂へ追いつめられていったのは、もう数瞬ほど後のことでしかなかった。
「…もう、いいわ、ジョエル。これでお姉…いえ、この女も、私に歯向かう気はなくした
はずよ。そろそろ私たちも、次の『儀式』の支度に取りかからなくっちゃね…」
そう、気丈にいい放つ少女の言葉が、微かに震えていたことなど、虚ろな瞳のジョエル
にわかるはずもない。
その、いまだ膨らみきらない幼い胸に去来する想いが、悔恨――と呼ぶべき感情だった
ことすら、この愛しくも哀れな姫君には理解できなかったのだから。
*
どこまでも果てしなく続く大海原。
空と海とがひとつの青となり、境が消える。
――ああ、人はここから生まれてきたのか。
ふりそそぐ太陽と、たゆたう波。
あらゆる命はここから生まれ、そしてまたここへと還る。
なぜならここが、命の源なのだから――。
彼女は、たゆたう波間を漂っていた。
なにか、大切なことが彼女にはあったはず。
けれど、それがはたしてなんだったのか。
なぜか、思い出すことはできなかった。
やがて陽は西に傾き、夕暮れを紅く染めていく。
たゆたう波も紅く染まり、漂う彼女の躰も紅く染めあげていく。
あたかも――ほとばしる紅い血のように。
『……み・な・み…』
微かに呼ぶ声が聞こえ、初めて彼女は自分の名前を思い出す。
そう私は、魅波という名前だったんだ――。
だが、その声の主の姿はどこにも見えず。
ただ響きだけが、彼女の耳に届く。
それはなぜか、懐かしい声に似ていた。
「…誰? 私を呼ぶのは…?」
あたりを見渡しても、誰もいない。
しかし、次の瞬間。
たゆたう波間が白く輝き、まばゆい閃光となって彼女を包みこむ。
「―――!?」
無数の泡が弾け、水中へ吸いこまれていく彼女のまわりで、光の乱舞を奏でる。
そして瞳を開けた時、彼女の目の前には光を背にして、幽かな人影が立っていた。
「…あなた、は……?」
だが、人影はそれには答えず、ただ優しく微笑んで光のとぎれる彼方を指さし。
『…ゆ・う・ひ……』
不思議に懐かしい声でささやくばかり。
「……あなた、は…!!」
忘れえぬ名前を呼ぼうとした瞬間、彼女の前からすべてが、幻のようにかき消える。
ただ――せつない想いだけを残して。
「……私、いったい?」
我に返ると、そこはまだ祭壇の上。
一糸まとわぬ姿はそのままでも、いつの間にか縄は解かれ、
いくぶん痛みが残っているとはいえ躰も動く。
「あの子たちは、どこに…?」
と、その問いを待ちかねていたかのように。
「――ここよ!」
頭上から、嘲りを帯びた声が響く。
「――――!?」
見上げれば、祭壇の前にそびえるランガの掌にすっくと立ち、
少女がはるかな高みから神のごとく彼女を見下ろしていた。
「ずいぶん待たせてくれるわね。せっかくの儀式も、立会人が見てなきゃ興ざめじゃない。
自分の産んだ娘が、神の王となる瞬間なんて、そう見られるもんじゃないんだから、せい
ぜい目に焼きつけておいたら?」
なにをする気!?――と問う間も与えず。
少女は薄帯をはらりと脱ぎ捨て、かたわらに控える少年に手を差し伸べる。
少年はといえば、差し出されたその手に唇を寄せ、うやうやしく絶対の服従を誓う。
偉大なる巫女の姫と、その忠実なる下僕。
こんな状況でさえなければ、それは美しい光景であったのかも知れない。
だが彼女は、見過ごす訳にはいかなかった。
「――夕姫! 降りてきなさい、夕姫!!」
無駄と知りつつ、ランガの脚にすがって身も世もなく娘の名前を叫び続ける。
それは、まさしく――姉でなく、母の叫びであった。
「…もう、遅いわ。誰にも止められやしない。運命の渦は、もう廻り出してしまったの。
私とジョエルは結ばれ、正しき王の血筋をまたひとつへ還す。バパス・島原勝流の血を
継ぐ姉と弟…私とジョエルが産む子こそが、神話の時代から約束された、バロウの真実。
そして、それこそがランガの意志であり、勝流兄さんの遺志なの。お姉ちゃんも知ってる
でしょ? かの始源の時、兄と妹とが結ばれて『世界』が始まった。ちょうどお姉ちゃん
と勝流兄さんがそうだったようにね。でも、母は娘に殺されて最愛の男を奪われ、そして
呪われた子供たちが産まれた。それが『人間』たちと、そして『ランガ』。もう、わかった
でしょ? 私は、お姉ちゃんから勝流兄さんを奪うの! 勝流兄さんのたった一人の息子
ジョエルと結ばれ、呪われた娘なんかじゃなく、新たな神話の女神となるの――!!」
かつて、これほど痛々しく、そして哀しい少女を彼女は見たことがなかった。
「…夕姫……」
ここまで少女を追いつめてしまったことが、彼女には悔やまれてならなかった。
もっと早く、出生の秘密を告げていたなら。
もっと早く、母として抱きしめていたなら。
こんなことには、ならなかったに違いない。
兄と妹の娘が、その弟と交わる――という、悪夢のような儀式になどは。
「…さあ、ジョエル。私を崇め、そして抱きなさい。あなたの従姉妹であり、叔母であり、
そして姉である私を。女神の澱んだ血を継ぐバロウの王統は、今また私たちによって再び
ひとつに還る。それがランガの意志、そしてバロウの真実……」
瞳を閉じて、唇を寄せ、両手をつなぎ、脚を絡めながら、姉と弟が静かに抱きしめあう。
「…ランガ・ドゥ・ヤァ・ランガ……」
舞うように手と脚とが絡みあい、謡うように喘ぎ声を漏らして、互いの唇からは祈りの
言葉が吐息とともに唱えられる。
その、大いなる神の掌に守られながら睦みあう姿は、まさにこの世のものではなかった。
この世のものというには、あまりに哀しく美しく、そして儚い幻でしかなかったからだ。
――なぜ私は、愛しい娘にまで同じ過ちをくり返させてしまうのか。
だが、その時。
『……み・な・み…』
夢うつつで聞いた、あの声が耳に蘇る。
その響きは確かに、懐かしいあの人の声。 そしてそれは、彼女にこう告げていた。
『……ゆ・う・ひ…を……』
それから先は、声にならない。
しかし、彼女にはわかっていた。
「――勝流さん!」
彼女の瞳に輝きが蘇り、その胸には息吹きが充ち、その躰には新たな力がみなぎる。
私は、先王・島原勝流の妻にしてその妹。
そして、王女・島原夕姫の母にしてその姉。
王の血は私より継がれ、そして私へと還る。
我こそは――すべての王の母。
すべての王の――その始まりの源。
裸身にくまなく描かれた呪紋が熱を帯びてゆらめき、神の力が躰の奥底から湧きあがる。
これが、人ならぬ――神の力!
そして、彼女は、声を限りに叫ぶ。
「ランガあああ――っ!!」
一瞬、すべての時が停まり。
すべての音が凍りつく。
だが、次の瞬間、
今の今まで岩のごとく微動だにしなかったランガが、目覚めたように身震いを始めた。
「…な、なにっ!?」
自分が命じてもいないのに、ランガが動く。
それは真の王となったはずの少女を、驚愕させるに充分な出来事だった。
真っ先に危ぶんだのは、すぐ上の姉の仕業。
しかし、それはすぐにも否定される。
「――夕姫っ!」
自分たちを乗せた右の掌が、静かに祭壇へと降ろされ、つかつかと歩み寄る母から。
「――――!!」
鼓膜も破れよとばかりに手加減抜きの平手が見舞われ、少女の頬で炸裂したのだ。
叩かれた勢いで地面に倒れ伏し、切れた唇から血の味が口中に広がる。
しかしまだ、それで済んだ訳ではなかった。
「……うぐうっ!?」
倒れ伏したままの少女に馬乗りになり、母は両手でその細い喉元をきりりと締めつける。
十秒、それとも二十秒。
息がつまり、目がくらみ、苦しさが熱さと化して少女の顔を紅く染めあげる。
けれど、みずからの娘の首を絞めつける母は、にっこりと凄惨な笑みをたたえ。
「夕姫。あんたはね、この私が産んだのよ。勝流さんの子種が、私のお腹で大きくなって、
それで、この世に生まれてくることができた。私がいなかったら、生まれてもこれなかった。
だったら、あんたを生かそうと殺そうと、私の好きにしていいはずよね? だって、私が
産んだ、私の子なんだから。そうでしょ?」
静かに、そして優しく恫喝をささやく。
その穏やかな瞳には危険な輝きが宿り、唇は甘い微笑をたたえて妖しく濡れる。
少女は生まれて初めて、心が凍りつく真の恐怖に打ち震えていた。
怖いものなど、なにもない。
ランガで敵と戦った時も、どんな危難の時も、恐怖を感じたことなど一度もなかった。
だが、今度は違う。
死は、優しい母の姿を借りて、すぐ目の前に迫っているのだから。
「……お、お姉…ちゃん……!?」
苦しい息の下から、ようやくの思いで言葉を紡ぎだす。
しかし、次の瞬間。
「――――!!」
片手で喉元を絞めたまま、もう片方の掌が、紅く染まった頬へ容赦なく平手を見舞う。
「『お母さん』でしょ!? よく聞きなさい。あんたの歳には処女じゃなかったし、海潮の
歳にはあんたを産んでたわ! あんたを産むために学校も留年して、堕ろせっていわれる
たびに自殺してやるって親を脅して、陣痛なんかマジで死ぬかと思うほど痛かったわよ!
どう? これで満足!? これが聞きたかったんでしょ!!」
ひと筋の涙が頬を伝い、叩かれて痛む少女の頬へとこぼれ落ちた。
見上げれば、彼女の瞳からはあふれ出した涙が止めどなく流れ、その顔に描かれた呪紋
の紅と混じりあい、血の涙にも見える。
いや、これは――本当に血の涙なのだろう。
少女が苦しんだのと同じく、いやそれ以上に、彼女は苦しみぬいて生きてきた。
朝な夕な顔を合わす愛しい娘を妹と呼び、なにくわぬ顔で、家族というかけがえのない
『楽園』を守ってきた。
寂しさも、哀しさも、すべて自分で抱えて、ずっとしっかり者の『姉』を演じてきた。
けれど、彼女もまた一人の、誰かにすがりたくなる――寂しがり屋の『妹』なのだ。
なのに彼女は、泣きじゃくることも、恨むことも、甘えることも許されず、たくましく目の前の道を
歩いて行かねばならなかった。
それが、最愛の男が自分に託した願い。
それが、自分で選んだ自分の生き方。
未来を作る新たな命を産むことを任された、『母』という女の――使命だったからだ。
「…お母…さん……」
それがわかった時、少女の彼女への反目はどこかへ消え失せ、その代わり胸の奥底から、
今まで感じたことのなかった不思議な暖かさがこみあげてくる。
それを歓びと呼ぶのか、それとも嬉しさと呼ぶのか、それは不器用で意地っぱりな少女
には、まだよく理解できなかった。
でも、それはいつか――母が教えてくれる。
この感情をどう受け止めればいいのか。
そして、どう伝えればいいのかも。
訳もなく、少女はそう確信していた。
――だって、私は、この人の娘なんだから。
そして、いつかは、私も母になるんだから。
女は皆、そうして生きてきたんだから――。
いまだ残る首の痛みも忘れ、少女は暖かな母の胸に抱かれて、静かに瞳を閉じていた。
*
「…私がどうして生まれたか、それを教えてくれた…ううん、観せてくれたのは、ランガ
だった。初めは驚いたよ。勝流兄さんが私の本当のお父さんで、お姉ちゃんが…お母さん。
でも、ちっとも嬉しくなかったわ。だったらなんで、私にいってくれなかったんだろう?
そんなに無かったことにしたかったんだろうか?…って。なにしろ、危険な香りを漂わす、
禁断の『呪われた子』って奴だもんね〜』
語尾を冗談めかして、ウィンクする。
まだ夜は明けきらず、東の空が白みかけたばかりだというのに、異様に立ち直りの早い
少女ではあった。
「でも、それって。今から考えると思いやりだったんだよね? お姉ちゃんの精一杯のさ。
だって海潮にこんなこといったら、あの単純馬鹿、なにいい出すかわかんないし。きっと、
今まで通りじゃいられやしない。そっとしておくのが、やっぱり一番いいのかもしれないな。
その方が、お姉ちゃんもいいでしょ? だって、その歳でこんな大きな子持ちだとか
ばれたら、それこそ大変だもんね」
くすくすと笑う少女の頭を、さっきよりは軽めに叩き。
「――馬鹿いってんじゃないの。元映画監督の長谷岡聖吾が太鼓判を押した、この美貌と
この体型。どこが経産婦に見えるってのよ! まだまだそんじょそこらの専業主婦なんかに
負けたりしないわよ!」
彼女も、冗談まじりに笑みをたたえる。
これが姉妹の語らいであれ、母娘の語らいであれ、うちとけあった会話には違いない。
ジョエルはすでに寝床に返し、二人も呪紋を風呂で洗い流してさっぱりと元通り。
昨夜の騒動の痕跡は、見渡す限りどこにもない。
ただひとつだけあるとすれば、それは少女の晴れやかな笑顔と、
そして、そんな少女を見つめる彼女の幸せそうなまなざし。
「ランガはね、きっと知ってたんだと思う。私がなにをするか、そしてお姉ちゃんがなに
をするのかも。それで、結局どういうとこに落ち着くのかもね。だって、ランガは正しい
ことを知る。ランガは『神様』なんだもの…」
それを、彼女も信じてみようと思った。
人は誰しも過ちを犯す。けれど、その過ちを悔いることができるのも――また人なのだ。
その時、正しい道を示してくれるもの。
それを人は――神というのだろう。
寄りそっていた少女が、甘えたそぶりで肩に頭をゆだね、上目使いで彼女に訊ねる。
「…ねぇ。時々は『お母さん』って呼んでも、いいかな…?」
それは、歳相応にあどけない顔に見える。
――この子ったら、こんな顔もできるんだ。
この笑顔が、これからはいつでも見られる。
それは、なんと幸せなことだろうか――。
「…そうね、二人っきりの時ならね」
母は優しく、娘に微笑みかけた。
終
掲示板に感想を書く