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あいつが帰ったあとの部屋は、
いつも見慣れた部屋だというのに、
なぜか、とても広く寒々と感じられた。
つい今さっきまでそのベッドの端に、
腰かけていたあいつのぬくもりが。
不思議とこの部屋になくてはならない、
大切なものだったように思えてくる。
――おかしな話もあったもんだ。
この部屋に親父以外の男を入れた事なんて、
今までただの一度もなかったのに。
そして、ひとたびそう思えてくると、
部屋のあちこちに残るあいつの匂いが、
優しくて男らしかったあいつの名残りが。
どうしようもなく胸をときめかす。
たぶんこれが、恋ってやつなんだろう。
そんな口の中でつぶやいた言葉にも、
思わず、頬が熱くなってしまう。
まさか、私がこんな気持ちになるなんて。
こんな気持ちになれるなんて。
少し前には思いもよらなかった。
そう、この冬休みになるまでは――。
*
「ふう……」
結局もう一度浴びたシャワーのあと。
昨日までは自慢だった長い髪を拭いながら、
椅子代わりのベッドに腰をおろし。
ついいつもの調子であぐらをかいて、
「…つっ!」
鈍い痛みに思い知らされる。
女になったんだ、という事を。
それも、さっきまで二人で抱きしめあい、
ぬくもりを交しあった、このベッドの上で。
『本当は俺、短い髪が好きなんだ…』
そういって優しく髪をなでながら、
本当にすまなそうに、あいつはいった。
でも、ちっとも腹は立ってこない。
それどころか、むしろそんな、
正直に打ち明けてくれた不器用な優しさと、
上辺だけの愛想ですまさない思いやりが。
あいつを好きになってよかったと、
胸の奥から暖かいものをこみあげさせる。
最初は、いけすかない奴だと思った。
それがいつの間にか、憎めない奴になって。
そして今晩、とうとう――。
思い出すと顔から火が吹きそうになる。
胸も破裂しそうなくらいどきどきと高鳴る。
よく、あんな馬鹿な真似ができたもんだ。
ていよく親父とお袋を慰安旅行に追っ払い。
一泊二日の勝手な独り暮らしをいい事に、
堂々と男を引っぱりこんだんだから。
我ながらつくづく思う。
親父、あんたの娘はたいしたタマだよ。
よりにもよって好きな男の前で、
素っ裸になって告白しちまったんだぜ。
だけど、反省する気なんかさらさらないし、
後悔なんかたとえ死んだってするもんか。
ふと、訳もなく誇らしい気分が湧いてくる。
いや、心当たりがない訳じゃない。
むしろ大ありだ。
喜べよ親父、あんたの娘は女になった。
それも、大好きな男と結ばれたんだ。
今、やっとわかったよ。
なんで親父達があんなに口を酸っぱくして、
人生の伴侶とやらを捜せといったのかが。
こんな気分、昨日までは全然知らなかった。
でも、今ならわかる。
バレンタインにチョコを渡す子の気持ち。
手編みのマフラーを編む子の気持ち。
昔の私だったら頭から馬鹿にしていた、
恋に焦がれる、女の子の気持ちだ。
だから、わかりたくないのにわかる。
なぜ唯があんなに嬉しそうに輝いてるのか、
なぜ友美があんなに優しい瞳をしてるのか。
それから、もうひとつついでに、
なぜいずみがあんなに喰ってかかるのかも。
あいつが、好きだからだ。
あいつはどうしようもないスケベだけど、
それでも女の子に素敵なものをくれる。
恋心という、かけがえのないプレゼントを。
それが身に染みてわかった今となっては、
あいつらと私はライバル同士だ。
なにがあったって負けられやしない。
相手が誰だろうとあいつを渡しやしない。
たとえ、どんな手を使ったとしても。
それで恨まれても、泣かれてもかまわない。
友美あたりなら卑怯者と罵るだろう。
だけど、そんなの知るもんか!
私はあいつらみたいに、
可愛くもないし、綺麗でもない。
隣同士で育った幼なじみでもなけりゃ、
ひとつ屋根の下で暮らす妹代わりでもない。
私なんか、私なんか、
ただの喧嘩友達でしかなかったんだから!
不意に目頭が熱くなって、
根性なしの涙が頬を伝って落ちてくる。
馬鹿だな、私は。
馬鹿で、しかも嫉妬深いときてる。
救いようがないけど、どうしようもない。
きっとこれから、
もっとあいつの事で胸がいっぱいになると。
もっともっと馬鹿になって、
もっともっと嫉妬深くなるんだろう。
もう、意気がってた洋子には戻れやしない。
あいつを好きでなかった頃に、
あいつに抱かれてない頃に戻るくらいなら、
いっそ、生まれる前まで戻らせてくれ。
そして幼なじみか、妹代わりにでも――。
駄目だ! 駄目だ駄目だ!
――なに弱気な事いってるんだ洋子!
なんのために親父達を旅行に追っ払った?
なんのために好きな男の目の前で、
あんな見え透いた恥知らずな芝居をした?
それもこれもみんな、
唯でも友美でもいずみでも他の誰でもなく、
私を好きになって欲しかったからだろう。
そしてそのために、そのために、
大切なあいつを騙すような真似までして!
なにが、もうすぐ生理がくるだ。
そんなの、半月も前に終わったじゃないか。
どこから見たって間違いなく危険日。
しかも、土壇場で抜かせたりしなかった。
それもこれもみんな、
あいつの子供が欲しいからだ。
あいつを私のものにしたいからだ。
あいつと私でこの店を継ぎたいからだ。
そうでなかったら誰が、
あんな恥ずかしい真似をするもんか。
誰が、あんな痛い思いを我慢できるもんか。
けれど、いくら強がってみたところで、
恥ずかしいだけでなかった事は、
痛いだけでなかった事は。
自分が、一番よくわかっている。
恥ずかしさをこらえて裸になった私に、
身体の震えを必死に押し殺していた私に。
『洋子の裸、好きだよ、綺麗だから…』って、
優しい瞳でいってくれた、あいつ。
あの時私がどんなに嬉しかったか、
あの言葉でどんなにときめいたかなんて、
きっと、あいつにもわからなかったろうな。
私だって、精一杯強がってみせたから。
あいつには、弱くない私を見て欲しいから。
そう、あの忘れもしない大晦日の晩。
ホテルを出てくるあいつに付いてた口紅も。
涼しい顔で笑い飛ばしてやった。
せつなくて涙が出そうだったけど、
今にも胸が張り裂けそうだったけど。
そんなの、絶対あいつには知らせない。
そんな涙、絶対あいつには見せたくない。
強がりでもいいから、あいつの前でだけは、
いつも肩で風を切る洋子でいたいんだ。
喧嘩ばかりしてきた私とあいつに、
お涙頂戴なんか似合いやしない。
勝つか、それとも負けるかの、
スリリングな恋が一番ふさわしい。
燃え上がりもしない恋なんて、
そんなもの、犬にくれてやればいい。
だから、私は賭けたんだ。
あいつの心を射止められるかどうか、
あいつが私だけを見てくれるかどうか。
もしあいつが海岸に来てくれたら、
絶対あいつを諦めない、と。
もしあいつが相談に乗ってくれたら、
絶対あいつを逃がさない、と。
とりあえずは、私の勝ちだったみたいだ。
でも、まだ最後の賭けが残ってる。
一番大事で、そして一番やっかいな賭けが。
はたして本当にあいつは、
私を選んでくれるだろうか?
私の心を見てくれるだろうか?
この、柄にもなく不安におののいている、
女になってしまった、私の心を――。
*
ふと枕元に振り向いて、
転がしてあるウエストバッグをさぐると。
中には希望と、保険が入っている。
けれど今はまだどちらも、
ひどく不確かな代物でしかない。
希望は、スペアキイの形をしていた。
結局売る事にした私のバイクを、
買い取ってくれたのは昔なじみの、
ハーレークラブを仕切ってる爺さんだった。
これで乗るのも最後だと納車に行った私に、
あの爺さんなにもかも知ったような顔で、
スペアキイを放り投げてよこし。
『ま、整備だけは欠かさんでおいてやるから、
早いとこ買い戻しに来るこった。おまえさん
がバイクよりも手に入れたかった、その誰か
さんと一緒にな…』とぬかしやがった。
まったく、なんて不良老年だ!
これだから若いうちから遊んでた爺さんは、
油断も隙もあったもんじゃない。
それに、もっと腹が立つのは、
そんなにやりと笑った笑顔につられて、
うっかりこっちまで微笑んじまった事だ。
きっとあの時の私は恥ずかしいくらい、
とびきりの笑顔だったに違いない。
そう、あいつ以外には見せたくないほどの。
だから私の、いや『元』私のバイクは、
エキゾーストを響かせる事もなく。
爺さんのガレージで仲間達とともに、
静かに私を待ちながら眠りについている。
きっと迎えに行ってやるから、
絶対迎えに行ってやるから。
それまで、錆びつかずに待ってるんだぞ。
できれば爺さんが冷やかした通り、
二人して迎えに行ってやりたいけど。
それは、賭けに勝てればの話だ。
そして、もうひとつの保険は、
薄っぺらな妊娠検査薬のシート。
ちゃんと色鮮やかに陽性反応が出ている。
昔と違って舌で舐める新型だから、
じかに触ったところで特に抵抗もない。
もうかれこれ二年近くも会ってなかった、
中学時代の悪友にまわしてもらったやつだ。
避妊しそこなったあげくに中退して、
もうじき鈑金屋の嫁になるあいつ。
でかくなった腹のおかげで、別人に見えた。
それに、昔より幸せそうな顔もしていた。
女って、あんな顔で微笑めるもんなんだな。
だけど、その後がいけない。
『…なんに使うかは訊かないけど、あんたも
そういうのが要るようになったんだね』だと。
そんなもん、余計なお世話だ!
前から皮肉のきつい女だったけど、
それが、にんまり笑っていう台詞かよ?
こっちも弱みがあるからいい返せなくて、
おまけに晩飯までおごるはめになった。
なにが、『式には来てね』だ。
一人でさっさと幸せになりやがって。
こっちがどんな気でいるかも知らずに、
どんな苦しい想いをしてるかも知らずに。
こっちはこれからこのイカサマで、
好きな男を騙さなきゃいけないんだぞ!
いくら検査薬を見せたところで、
ちょっと念入りに調べりゃ、すぐばれる。
そしてばれたら、絶対嫌われる。
道で会っても口もきいてくれなくなる。
憎まれるだけならまだしも、
嫌な女だと思われてしまうのが、一番辛い。
あいつはまっすぐな性分だから、
騙すのも騙されるのも、大っ嫌いなんだ。
なのに、わかっているのに、
私にはこうするしか思いつかない。
こうするしか、あいつを繋ぎ止められない。
なんて! なんて馬鹿な女なんだ私は!
そう、あいつに嫌われるまでもない。
私だって、こんな私大っ嫌いだ!
こんなに馬鹿で、こんなに醜い私。
それに、私をこんなにしてしまった、
こんな馬鹿な女にしてしまった、あいつが。
だけど、嫌いになんかなれない。
嫌いになんかなれっこない!
こんなに、こんなに好きなんだから。
どうして好きになって欲しいのに、
どうしてわざわざ嫌われる真似をする?
どうしてあいつの気持ちを信じない?
あんなにも強く抱きしめてくれた、
あいつの、気持ちを――。
「…うっ、うっ……」
いつの間にかきつく唇を噛みしめ、
声を押し殺しながら泣いていた。
家には誰もいないのだから、
大声で泣く事だってできたけど。
なぜか、そうはできなかった。
――信じられない訳じゃないんだ。
信じてる。誰よりも、誰よりも信じてる。
確かにあいつは女の扱いには慣れてるけど、
いいかげんな気持ちで女を抱けるような、
そんな、器用な野郎じゃないんだ。
そんな事、抱かれた私が一番わかってる。
あの熱い吐息と、
あの肌のぬくもり。
優しくまさぐる指先に、
灼けつくようなあいつ自身。
この体の隅々にまで染みこんだ、
あいつの感触が今でも私を包んでいる。
思い返すと胸は高鳴り、
早鐘を打って頬を火照らせる。
胸の先も硬くしこって顔を出し、
あいつの甘い唇を思い出している。
くすぐったさもいつしか心地よさに変わり、
指の動きのひとつひとつが素肌に蘇る。
そして鈍い痛みを訴えていたはずの、
脚の付け根さえほのかに熱をおびていき。
「…ん……」
だらしないと思えば思うほど、
はしたないと思えば思うほど。
女になった実感が体中からあふれ出して、
履き替えたばかりのショーツを潤わす。
――お願いだよ、信じさせて。
この体で感じたあいつの気持ちが、
決してただの遊びなんかでなかったと。
唯でも友美でもいずみでも他の誰でもなく、
私だから、抱きしめてくれたんだと――。
そっと細い指を這わせると、
熱い潤いがショーツ越しににじんで。
私の指は、あいつの指になる。
かすかな痛みと、ほのかな心地よさが、
女になれた悦びを奏でだしていく。
不潔だなんて思わない。浅ましいとも。
だってこれは、あいつが教えてくれた悦び。
あいつが愛してくれた、証なんだから。
きつく閉じた瞼の裏から淡い光がこぼれ、
やがて鮮やかな虹の乱舞を舞い踊る。
そしてその光があいつの笑顔へと変わって、
瞬間、私の心は翔んだ。
気がつくと潤んだ両の瞳からは、
悲しみとは違う涙が止めどなく流れていた。
「…馬鹿だな、私って……」
信じられないのは、あいつでなくて自分。
色恋沙汰からいつも身を引いて、
クールを気取っていた、私自身じゃないか。
いつ頃からだっただろう。
恋とか愛とかいう事に憶病になったのは。
バイクが恋人だとうそぶいて、
男は硬派がいいなんて生意気な口をきいて。
そんなの、ただの言い訳だったんだ。
本気で誰かを好きになった事がなくて、
本気で誰かに好かれた事もない。
そうだよな、好き勝手な事がいえるはずだ。
そしてそのくせ、
デートだなんだと騒ぐ同級生達を見下して。
独りで大人の女を気取ってたなんて。
今だったら、ぶん殴ってやりたい馬鹿女だ。
さぞかしあいつも、苦労したんだろうな。
喧嘩友達でしかなかったとしても。
でも、もうそんな馬鹿な女じゃない。
そりゃ、馬鹿には違いないけど、
今、はっきりとわかったんだ。
どんなに、あいつの事が好きか。
どんなに、恋をするのが素敵な事か。
だから、なにが起きてもためらわない。
たとえ、どんな結果が出ようとも。
あいつだっていってくれたじゃないか。
『自分の気持ちに、素直になればいい』って。
本当に、まったくその通りだ。
これは、いったい誰の恋だ?
あいつを好きになったのは、どこの誰だ?
あいつ無しでは生きていけないほど、
好きで好きでたまらないのは、
誰でもない、私じゃないか。
だったら、なにも遠慮する事なんかない。
心配するなんて、もっての他だ。
私は、私のやり方であいつを愛すればいい。
だいたい、他にどんな愛し方がある?
手編みのマフラーでも贈るか?
冗談じゃない!
よく考えてもみろ、
あいつが抱いてくれた洋子は、
そんなわざとらしい洋子だったか?
あいつは、ありのままの私を抱いてくれた。
このままの私を愛してくれたんだ。
少なくとも、私はそう信じてる。
信じたいんじゃない。信じてるんだ。
あいつの瞳は澄んでいた。
あいつの瞳に嘘なんかなかった。
あいつの瞳はまっすぐに私を見つめていた。
だったら、あいつを信じなくてどうする。
まがりなりにもこの私が、
同じ人生を歩みたいと思った、あいつを。
もちろん賭けは賭けだから、
ちゃんと予定通りに騙してやるさ。
できれば騙すまでもなく命中してて欲しい。
そうすりゃ、私はあいつの子供を生める。
あいつの性分からいって、
いい逃れなんかできる訳がない。
ちゃんと責任だって取ってもらおう。
ただ、もし万一妊娠しなかったとしても、
それならそれで妊娠するまで頑張るだけだ。
どっちにしても肝心なのは、
絶対あいつを放したりしない事。
絶対あいつを後悔させたりしない事。
好きでもないのに好きになれとはいえない。
だったら、好きにさせるまでの事さ。
あいつともいってたように、
確かに、腕ずくで恋は勝ちとれない。
それくらい、恋愛音痴の私にだってわかる。
だけど、女には女の武器だってあるんだ。
まったく我ながら驚くけど、
あいつを好きになってからの私は、
正真正銘の、女だ。
よく、こんな悪知恵が働くと思うよ。
きっと処女膜の裏側には数えきれないほど、
恋の駆け引きがしまってあったんだろう。
「ふふ…」
ついつい唇から微笑みがこぼれる。
子供ができたと打ち明けたら、
あいつはどんな顔をするだろう?
百年の恋も醒めるほど情けない顔でも、
きっと、愛しくてたまらなく見えるはずだ。
なにしろ、私の旦那様の顔なんだから。
知らず知らず、そっとお腹をなでてみる。
今はまだいないかも知れない私の赤ちゃん。
あなたにも、その顔を見せてあげたい。
そして、二人で内緒話をしようよ。
この人で本当に大丈夫なの?…って。
私はにっこり微笑んでこういってあげる。
『人は、見かけによらないものなのよ』って。
こんな事、あいつには絶対いえやしない。
あれでも自分では色男のつもりなんだから。
いろいろあいつに教えなきゃいけないな。
私がどんなにあいつを想っているか、
あいつのどこに魅かれているか。
口でいえないのがもどかしいけど、
伝える手はいくらだってある。
まずはそう、もっと料理を勉強しよう。
ご馳走する愛妻料理が目玉焼きだけじゃ、
いくらなんでも可哀想すぎるから。
そう、それにバイクの楽しさも。
これだけはしっかり教えこまないと。
あいつがバイクに興味ないのはかまわない。
そんなもの、好きにさせればすむ話だ。
とりあえずタンデムはしない主義だけど、
こうなると背に腹は代えられやしない。
代車用のKHかRDにでも乗せて、
ツーリングに連れていってやるのもいい。
春になったら海岸通りを西に向かって、
どこまでも夕陽を追いかけてみよう。
陽が沈んだらそこで泊まればいい。
大きめの寝袋とコーヒーカップをふたつ。
春まだ浅い頃なら、二人で暖めあえる。
そうしてバイクと私の虜にしたら、
もう、なにも遠慮する事なんかない。
教習所にだってタンデムで送り迎えだ。
きっとあいつの事だから、
女の後ろに乗せられるのが嫌さに、
さっさと免許も取ってくれるに違いない。
そうすればその時こそ、
晴れて私の夢のひとつがかなえられる。
あいつの背中を抱きしめて風になる、夢が。
まあ、一年間は辛抱するしかないけどな。
いいさ、まだまだ夢はいくらでもある。
これからの人生全部を使ってかなえる夢が。
そんな風にして素敵な毎日を送り、
私はもっともっとあいつが好きになり、
あいつももっともっと私の事が好きになる。
どこから見ても非の打ちどころがない、
あいつ好みの女になってやるんだ。
私はどうしようもない馬鹿だけど、
馬鹿をその気にさせると怖いって事を、
あいつにも思い知ってもらわなきゃ。
そう、そしてまずそのためには――。
*
思っていたほど悲しくはなかった。
小学校の頃から伸ばしていた髪なのに、
女らしくない私の唯一の女らしさなのに。
床一面に広げた新聞紙の上で、
見るも無残に切り落とされたそれは、
ただの、切った髪でしかなかった。
「こんな、もんか…」
さすがに、自分でも少々呆気なさすぎる。
あいつに短い髪が好きだといわれた時より、
ショックが少ないのはなぜなんだろう。
けれど、そんな呆気なさの中にも、
確かに感じられるものがある。
今までの自分とは違うなにかが、
重かった髪から解き放たれた、この感じ。
軽くなった首筋から生まれる、この感じ。
「…ああ、そうか」
そうだ、それなら馬鹿な私にもわかる。
これでまた一歩、
あいつ好みの女に近づけたから、なんだ。
終
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